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Q1 浄土真宗はなぜ西と東にわかれているのですか。
現在、浄土真宗は十の宗派にわかれています。その中でも東本願寺を本山とする真宗大谷派と西本願寺を本山とする本願寺派が最大です。実は本願寺は今からおよそ500年前の戦国時代は一つだったのです。これを説明するには戦国時代に起こった石山戦争にまで歴史はさかのぼらなければいけません。
石山戦争とは織田信長と石山本願寺との戦いです。石山本願寺とは室町時代に活躍した蓮如上人が晩年に大阪の石山の地に建立した一大拠点です。信長は石山本願寺との戦いを10年以上続けたのですが石山本願寺を降伏させることが出来ませんでした。このまま石山合戦で足止めをされることを好まなかった信長は本願寺に和睦を申し出たのです。その時、和睦するか徹底抗戦するか石山本願寺内の意見は二つに分かれました。これが本願寺が西と東に別れるきっかけとなったのです。当寺の石山本願寺のトップ、顕如上人と三男の准如は和睦を、長男の教如は籠城して抗戦を主張し意見は激しく対立しました。結局、信長と和睦し石山本願寺を明け渡すことになりました。しかし和睦はしたものの信長は本願寺滅亡を画策していました。石山本願寺焼失後も顕如上人と教如上人の親子の溝は埋まることはなく顕如上人は三男の准如上人に本願寺の宗主を譲りました。これが今日の西本願寺であります。その後、徳川家康は巨大な本願寺勢力の分断を策略し、不満の溜まっている教如上人に寺地を寄進し東本願寺を別に建てさせたのです。その結果、本願寺派西本願寺と東本願寺の二つに分断したのです。
長くなりましたが、まとめますと本願寺はもともとは一つだったが信長との戦いであった石山合戦で生まれた親子の確執と徳川家康の本願寺勢力分断策によって西本願寺と東本願寺が生まれたわけです。そのため親鸞聖人の教えには西も東もなく同じです。
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